画禅一如

はじめに

あいさつhttps://misokuso.cobbbm/profile/

今回の投稿のタイトル「画禅一如」について少しお話します。「禅語」は難解と思われていますので、意味を分かり易くするために、まず小弟が禅語の解説・説明などを読み、頭に浮かんだ映像を「紙こより画」で描き、そこに「禅語」を書き添える。この方法により、難解な「禅語」を理解しやすくし、速やかに、悩みや迷いなどによる精神的不安を解消して頂き、快適で軽やかな人生を生きて頂ければと思います。 

「画禅一如」とは

直訳すれば、「作画」と「座禅(禅)」は、同じという意味ですが、座禅による「悟り」が「作画」によって体得できると言うことなんでしょうか ? そんなに簡単に悟ることが出来るのか ? 疑問です。

白隠禅師の禅画の「賛」に「座禅して人が佛になるならハ・・・」がありますが、「人が座禅して佛になれるのなら『蛙』である「儂(わし)」は既に大僧正になつている」と言いたいのでしょうね。そんなに簡単に「佛」になれるものではないと「白隠禅師」は言っているのでしょう。また、形だけの座禅をしても「悟り」は得られないと云う事も教えたいのでしょう。悟りは体得するものであり、本を読んだり、説法を聞いたりするだけで得られるものではないと思いませんか ? 禅宗に対する私の考えは、「座して学べるものではない」と考えております。禅宗は実践哲学です。

僭越ですが、小弟の考えを披露させて頂きます。これは私が、柔道の練習中に経験した事なのですが、先輩と「乱取り」をしている時、練習に疲れて意識朦朧とする中で無意識にフラフラになり技をかけて、先輩を背負い投げしていた経験があります。技を掛けようという意識もなく、また無心で力も入れず、知らないうちに先輩の「ふところ」に体を屈めて入り、先輩の右腕を引いて投げていたのです。これは不思議な感覚でした。
また、座禅の真似事をしている時のことですが、座禅胡坐をかき、目を半眼にして、膝前 数センチ先を見て呼吸を整えながら、闇の中を一枚一枚、闇を潜り、進んでいくイメージで進むと、また闇があり、どこまで行っても闇なのですが、その闇が広大な宇宙と一体となったような感覚に陥ったような気がしたことがあります。小弟は、これが「梵我一如」かと想いましたが、これは小弟の主観的な体験であり、他人に説明しても、その感覚は相手には伝わりません。教学的には「梵我一如」と表現しますが、これは、宇宙の根源「梵(ブラフマン)」と個体(人)の「我(アートマン)の本質」は同一ということを表現しております。頭では「梵我一如」を理解できたとしても、体験的に「梵我一如」の体感を取得することは他人には無理だと思います。禅宗に達磨大師の言葉として、四聖句があります。この四聖句の一つに「教外別伝」(きょうがいべつでん)という言葉があります。これは、禅の精神は、お経や説法では体得できないという教えなのです。

これは、白隠禅師が描いた「座禅蛙画賛」です。ニヤリと笑みを浮かべた蛙が手を前について座っている。賛には「座禅して人が佛になるならば」とあって、蛙が座る姿を座禅に見立てている。はたしてこの蛙は悟った蛙なのか、あるいは漫然と坐っているだけの修行僧を皮肉る蛙なのでしょうか ? 見る者によって答えは異なると思います。

これは、小弟が白隠禅師の「禅画」を見て、描いたものです。「賛」を「座禅して人が佛になるならばと書きました。小弟は「座禅して人が佛になるならば、既においら(蛙)は大僧正」と思ったのですが、そこまで描くのを止めました。形式的な、形だけの「座禅」をしても「佛」にはなれないよ。なれるのなら、生まれてからずっと座禅しているおいら(蛙)は「大僧正」なっているはず。形だけの座禅をしても「佛」にはなれないよ、と言っているように見えました。

おわりに

冒頭でも述べましたが、

今回のブログのタイトルは「画禅一如」でした。これは「作画」をすれば、「禅を修得」することが出来ると理解されている方もおられるかも知れませんが、決してそうではありません。前項目の最後に「禅は、座して学べるものではない。実践哲学です。」と書きました。「禅」は身をもって無体得するものであります。そして、理解・習得が困難だと言われております。だから禅の修得を少しでもスビィーディ・速やかにできるように、禅語を理解しやすいように絵画化し、禅をご理解される一助になればと思い原稿を書きました。小弟は覚醒者ではありません、道半ばの不覚者で御座いますが、勉強を兼ねて書き上げました。ご一読ください。

結論

「画禅一如」とは、「作画(禅画を描く)」することにより「悟り」を得ることができると言う意味ですが、結論を申し上げますと(あくまでも小弟個人の考え)、禅画を理解して「作画」しても、悟りを得ることは出来ないと思います。達磨大師の「四聖句」の一つに「教外別伝(きょうげべつでん)」で言われている様に、経典・説法で悟りを得ることは出来ないのと同じで、「悟り」は体得するもので、知的レベルで理解するものではありません。これが小弟の結論であります。しかし、「作画」が「悟り」を得るために何の効果もないと言うことではありません。「悟り」の開扉、一歩直前迄は誘導してくれるものと考えております。

お問い合わせ

お問い合わせは、下記表によりお願いします。

    このフォームはスパムを低減するために Akismet を使っています。 データの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。















     

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です