少水魚有楽(2)

はじめに

                 https://misokuso.com/profile/ (あいさつ)

禅語「少水魚有楽」について、ブログ公開(2025.12.18)してから、妙心寺(臨済宗妙心寺派)に御縁を感じ、お詣りに行きたくなり、雨の中、行って参りました。妙心寺南門の前に着くなり、「少水の魚に楽しみ有り」と書かれた標柱が目に入り、なるほど「妙心寺二代目住職微妙大師」が唯一残した「禅語」が目に入りました。

写真は雨の日に私が写した「妙心寺」南門前の東側に建てられた「標柱」です。見ての通り「少水の魚に楽しみ有り」と書いてあります。この言葉の作出者は、妙心寺二代目「微妙大師(みみょうたいし)」ですが、普通禅僧は語録など多く残しそうなのですが、微妙大師は、生涯に残した墨跡は「これ」だけだそうです。これだけを残したその気概は小弟の如き凡人では計り知れないものがあると思うのですが、きっと、なかなか自分に厳しい禅僧だった様な気が致します。

明智風呂

しとしとと降る雨の中を、妙心寺南門から「大方丈」に向かって歩いておりますと、右手に工事中の様な建物があり、立て札を見ると「明智風呂」と明記されておりました。この建物は明智光秀と関わりのあるものかと思い、少し興味を持って立て札を読ませて頂きました。

光秀の汚名

立て看板には、明智光秀の母方の叔父である妙心寺の蜜宗(みっしゅう)和尚が、明智光秀の菩提を弔う為に、光秀の死から5年後の天正15(1587)年に建立された旨、書かれてありした。墓では無く敢えて浴室にしたのは「主君信長を討った逆賊という(光秀の)汚名を洗い流したかった・・・」という説明がありました。

光秀の死               

光秀は、本能寺の変(1582年6月2日朝)で、主君「信長」を倒した後、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡山崎)辺りで、毛利勢と備中高松城で交戦中の羽柴秀吉が、京都に反転し、明智勢と合戦し、秀吉は光秀軍に勝利し、阪本城(滋賀大津)を目指して敗走する光秀は、敗走中の山科小栗栖で落武者狩りの農民の竹槍に刺され、深手を負い、その場で自刃(天正10[1582]年6月13日)・自害したそうです。

光秀は、細川藤孝(幽斎)・忠興、筒井順慶に「山崎の合戦」に援軍を要請したが、要請を得ることが出来ず敗走した。

細川藤孝と明智光秀の関係

二人は、室町幕府の再興を目指した時代からの盟友であり、光秀の娘「ガラシャ」と藤孝の長男「忠興」は結婚しており、極めて深い間柄でした。そんな二人は信長に支え、畿内平定などで協力し、丹後国を平定するなど、軍事的・政治的に補完し合う関係でありましたが、本能寺の変の後(信長の死後)、光秀が山崎の合戦に細川藤孝を援軍要請するが、光秀の要請を細川藤孝は拒否し、「藤孝」は、直ちに剃髪して「幽斎」と号し、信長への哀悼を示し、光秀の援軍要請を拒否し、信長への忠義を優先しました。

山崎の戦い跡地

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受けて、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれていた合戦で、現代的表現は山崎の合戦とも呼ばれている。

二人は、室町幕府の再興を目指した時代からの盟友であり、光秀の娘「ガラシャ」と藤孝の長男「忠興」は結婚しており、極めて深い間柄でした。そんな二人は信長に支え、畿内平定などで協力し、丹後国を平定するなど、軍事的・政治的に補完し合う関係でありましたが、本能寺の変の後(信長の死後)、光秀が山崎の合戦に細川藤孝を援軍要請するが、光秀の要請を細川藤孝は拒否し、「藤孝」は、直ちに剃髪して「幽斎」と号し、信長への哀悼を示し、光秀の援軍要請を拒否し、信長への忠義を優先しました。

筒井順慶と光秀の関係

洞ヶ峠

「洞ヶ峠と筒井順慶」は、山崎の合戦(本能寺の変後)で、筒井順慶が明智光秀と羽柴秀吉の双方から加勢を求められ、日和見の態度を取ったとされる伝説に由来し、「洞ヶ峠を決め込む」という日和見主義の代名詞になったことわざ。実際には、順慶は洞ヶ峠に出陣していなかったという説もあるが、この逸話にり順慶は「日和見順慶」と評され、後世にこの言葉が広まった。

筒井順慶は当初「松永久秀」と対立していたが、明智光秀の仲介で信長の臣従となり、光秀と共に大和の統治を任され、順慶は光秀の与力となり、両者は親密な関係となりました。こうする事により、松永久秀を駆逐して筒井順慶は郡山城主となり、また、光秀の娘(通称:秀子)が、信長の命令にり、光秀と筒井順慶の結びつきを強めるたに順慶の養子「筒井定次」と秀子を結婚さ、大和支配の安定を図るための政略結婚でした。光秀と筒井順慶は、光秀の娘(秀子)と順慶の養子(定次)を結婚させて、姻戚関係で繋がり、強固なものとなったが、秀吉の備中(岡山)高松城からの反転が早く、山崎に戻ったのを見て、秀吉優勢と判断し、順慶は「洞ヶ峠で日和見をした」という有名な逸話が残っているが、順慶は光秀の援軍要請を「秀吉優位」と判断し断ったのです。

「本能寺の変」を光秀が敢行した理由

光秀が「本能寺の変」を敢行したのは、簡単に言うと、織田信長の「天下布武」と明智光秀の「王道主義」の対立が本能寺の変の原因の一つです。「天下布武」を掲げた織田信長と、その重臣でありながら本能寺の変を起こした明智光秀との二人の関係は、単なる主従関係を超えた、「新しい秩序(革新)」と「古い秩序・道徳(伝統)」の対立であります。
1、信長が掲げた「天下布武」は、元来は「天下に武を布(し)く=広める」と読まれ「武 力で天下を平定する」と いう意味で
あり、武力によって既存の権威(宗教勢力や室町幕府)を解体し、合理的な新しい社会を築くという信長の強い意志の
表れであります。信長は
・革新性: 兵農分離、楽市・楽座などの政策により、実力主義・経済重視の国づくりを 強行し
・手 法 : 目的のためには現存の道徳や習慣を顧みない冷徹な行為で行い、儒教的な「王道」とは馴染まない、「覇道」に近い強硬な統治スタイルを取りました。
2、これに対して、光秀は、「王道」主義をとり、教養と秩序を重んじる「守旧」の考え方で臨み、
・伝統の尊重 : 将軍・足利義昭や朝廷との橋渡しを担い、古い秩序(幕府・朝廷)を尊重する姿勢が強く
・理想の政治 : 領地では治水や地子銭(税)の免除を行い、領民に慕われる「徳」による政治(王道)を実践しようとしたの
です。
3、以上の様に、本能寺の変は、信長の「天下布武」と光秀の「王道治世」の衝突という側面を有している事は間違いありません。
 現代の歴史研究では、単なる「恨み」だけでなく、政治方針の決定的な食い違いが反乱の原因と考えられています。例えば、
・信長が光秀の外交交渉(長宗我部氏との宥和政策)を一方的に破棄し、武力侵攻を決めた事に光秀は、信長に不信感を抱き、
・朝廷などの既存の権威を完全に無視し始めた信長の暴走を止めて、伝統的な「王道」的な秩序を維持するために決起したのが本能寺の変であります。
4、結論として
信長にとって「天下布武」は、最強の武力を君臨させることにより、平和を保持するという方法で、その過激な手法
は、伝統や道徳を重んじる光秀にとって耐えがたい「非道の支配」に見えたのでしょう。そして、光秀が最期に「王道」
を求め決起したのが「本能寺の変」なのであります。ただ、光秀が、周到な準備をせず、何故1582年6月に決起したのか?
これが、わからないのであります。この問題(光秀が何故「本能寺の変」を決行したのか?)は、今なお歴史の大きな謎で
明解な答えが出ておりません。

明智光秀
時代~室町~安土桃山時代(1528?~1582)
出身は美濃国(岐阜県)
織田信長に仕え、信長と足利義昭との関係を取り結んだと言われている。1582年、本能寺で信長を倒したが、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃走途中、農民(落ち武者狩り)に殺されたと伝えられている。

本能寺の変は、15982年、明智光秀は、信長から毛利軍と戦っていた羽柴(豊臣)秀吉を応援せよとの命令で亀山城を出発したが、一行はその秀吉軍の方には向かわず、京都へ進みました。京都の桂川を渡った時、光秀は家来に「敵は本能寺にあり」と伝えました。ここで、一同は初めて光秀が信長を討ち、天下人になる決意をしていることがわかったのです、信長を討った光秀ですが、すぐに秀吉の軍が買えり、天下を取る夢は消えました。このことをむ「三日天下」ともいいます。

「本能寺の変」の原因と考えられる諸説?

本能寺の変は、織田信長が家臣明智光秀に殺害された事件で、光秀がなぜ信長を討ったのか、はっきりした動機は不明でありますが、「怨恨説」「野望説」「朝廷黒幕説」など、さまざまな説が言われております。
1 怨恨説 信長による日常的な叱責や、重要な役職の解任(饗応役での失敗)など、人前での屈辱など が積り積 もって決起したという説。
2  野望説 光秀自身が天下を狙っていた、或いは天下取りを狙う力があったという説。
3 黒幕説 (朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説など)  光秀は朝廷や旧将軍(足利義昭)など、信長の排除を望む勢 力と結びつき、そ
の意向を受けて信長を討ったという説
・信長が朝廷の権威を軽んじる言動を繰り返していたため、朝廷が危険を感じて、光秀に命じて信長を倒したという説
4 信長の非道阻止説
  信長の「悪逆非道」を止めるため、光秀が自らの意思で決起したという説
等がある。そして、複数の要因が絡み合っていた可能性もあり、特定の決定的な理由をあげることは難いとされ、今なお研究者によって様々な解釈がされています。
5 小弟の個人的考え
  誰が書いた本なのか記憶していないのでずが、明智光秀の奥様を信長が部屋に呼び出して、事に至ろうとしていた表現があったのですが、光秀の奥様(煕子)が拒否したのか、受け入れたのか結末は曖昧な表現で終わっていたような気がします。光秀は、妻「煕子」に手を出そうとした「信長」に個人的な恨みを持ち、「信長」打倒を決起した可能性も考えられるのでは・・・?と小弟は考えております。
この件について、興味のある方は
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b930f2d20499aa348b8e72c2703e9d54153c7546をタップしてください>

おわりに

明智風呂を妙心寺境内で見かけた事に端を発し、明智光秀が、織田信長を倒す「本能寺の変」に話が飛んでしまい申し訳ありませんでした。少々、面倒な話しで申し訳ありませんでした。お読み頂きありがとうございます。このブログは、想定外の終わり方をしてしまいましたが、また、気合を入れ替えて、松原泰道僧師の話したいと思っております。その節はよろしく申し上げます。

ご期待くださいませ。

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