般若心経と座禅

                                 ごあいさつ

はじめに

大乗仏教の代表的なお経「般若心経」を久しぶりに勉強させて頂きました。実は、般若心経を今までに何回も読破しようと挑戦しておりましたが、難解で数回挫折しております。この度、故松原泰道老師の初出版でベストセラーになった「般若心経入門」を読ませて頂き、初めて読破しました。

松原泰道(1907年11月23日生~2009年7月2日没)
日本の臨済宗の僧侶、東京都港区の龍源寺住職。東京都生まれ。早稲田大学文学部卒、岐阜県の瑞巌寺で修行したのち、臨済宗妙心寺派教学部長を務められた。1972年出版の「般若心経入門」は記録的ベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけを作ったと言われています。1989年仏教伝道文化賞。1999年禅文化賞受賞。

読破して感じた事なのですが、世の中に起こる事象は、すべて因果関係により、お互いに影響し合って、生成流転している。そして、事象は諸行無常で「固定的な実体」としてではなく、変転流転するものであると執拗に説かれていました。この変化する事象に潜む因縁を探り、その因縁を解消すれば「苦」から解放されるというのです。言い方を変えれば、変化する事象を「般若心経という眼鏡をかけて」見て、対峙している「苦が何故起こり、どうすれば解消できるのか判る」という教えが般若心経であると理解しました。だから、日々、起こる事象を「般若心経」の説く、因果(縁起)に沿って正観すれば「座禅などする必要はない」と言うことであるのかも? 年老いた「くちばし」の黄色い、尻(しり)の青い、素朴な故老の疑問であります。

四諦・八正道の「正定」

 ※四諦八正道の説明は、これをタップして下さい。             
  https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=106
お釈迦さんは、紀元前5~6世紀頃、北インドの釈迦族の王子として生まれ、29歳で出家し、苦行の末に35歳頃、菩提樹の下で「悟り」を開き、初めて説教をしたのがサルナート(ガンジス川の中流)にある(鹿野園)と言われています。この初めての説法を「初転法輪(しょてんぽういん)」と言います。

この「初転法輪」の内容は、仏教の中核概念である「四諦」、「中道」、「ハ正道」について書いてあります。
「四諦・ハ正道」については、冒頭に「リンク」を貼り付けておりますのでご覧ください。

八正道に「正定」という教えがあるのに何故「座禅」が再登場したのかな ?

先ほども言いましたように、仏陀が悟りを開き、初めて説教をした「初転法輪」の内容に「四諦・八正道」の教えが入っており、四諦とは人生の苦しみ(苦・集・滅・道)の本質を理解し、正しい生活態度や心構え(八つの修行)を実践することにより、煩悩(執着)を滅し、苦しみのない安らぎの境地(涅槃)に達することが出来るとい教えです。そして、八正道の最後(八つ目)には、正しい精神統一の状態を示す「正定(しょうじょう)」と言う言葉があります。その内容は、「悟り(涅槃)」に至るために、不要な妄想や揺らぐ心を捨て、一つの対象(涅槃)に至ることに集中する「精神状態」と説明されています。禅における「心を一つに定めて散乱させない状態(禅定)」と同じ概念です。この「正定(しょうじょう)」という概念が、禅宗開宗のおよそ1000年余り前に仏陀が「初転法輪」の中で説いているのです。四諦・八正道の「正定(しょうじょう)」と酷似した「禅定」という概念が「禅宗」で再登場しているのです。不思議ですね。

初転法輪(しょてんぽうりん)

仏陀が初めて仏教の教義(法輪)を人々に説いた出来事をいう。
伝説的な理解においては、そこでは仏教の中核概念である四諦、八正道、中道が説かれたとされています。

禅宗の始まり

禅宗の始まりは、仏陀の「初転法輪」から、約千年から千数百年と言われております。
仏陀の「入滅」については諸説あります。
①伝統的伝承として、紀元前544年頃(仏滅紀元元年)
➁学術的推定としては。紀元前480年~380年の間(中村元博士は紀元前383年
 と主張)。
とあります。よって、禅宗の始まりは、おおよそ6世紀初めと考えられます。

白隠慧鶴(1686年~1769年)
臨済宗中興の祖と称され、江戸時代中期の禅僧。駿河国原宿(現・静岡県沼津市)の商家(長沢家)飲む三男として生まれ幼名「岩次郎」。

達磨の生涯

達磨は、仏陀から数えて28代目の仏教宗主でありますが、出生は、南インド香至国(こうしこく)の第三王子で、本名「菩提多羅」といいます。

中国へ渡航 520年頃(一説では527年)、海路で中国(梁)に渡り、武帝と問答。
武帝は、熱心な仏教信者で、「自分は多くの寺を建てたが、どれほどの功徳があるか」と達磨に問う。達磨は「無功徳」と一蹴した。その後、達磨は、揚子江を渡り「嵩山少林寺」へ行き、「少林寺」において、「面壁九年」の座禅を終えて悟りを開いたといわれております。
仏陀が悟りを開いて、初転法輪してから1000年余り経って、達磨は禅宗を開いたことになります。 (どうして1000年余りもかかるのかな?)

達磨の生涯などについては、下記のURLをタップしてして下さい。             
      https://true-buddhism.com/history/daruma/

おわりに

原始仏教と禅宗の明確な違いは、八正道の八番目の「正定(しょうじょう)」に関する相違です。「正定(しょうじょう)」は、「安定した精神状態」そのものを言い、その状態に至る方法を「禅定」という。こんな些細な違いの調整に1000年余りもかかるのでしょうか ?

小弟の記憶ですが、学生時代の授業で、仏陀入滅後、教義の形骸化・仏像の偶像化が進み、仏教が衰退したと聞いたことがあります。達磨がインドから海路で中国に渡り、梁の武帝と会い、仏教に貢献している武帝は、達磨に対して「仏教に貢献して寺や施設を普及してきたが、儂の功徳はどれほどのものか ?」と尋ねたようです。達磨は「無功徳」といって武帝の前から去り、揚子江を経て、嵩山少林寺に行き「面壁九年」の修行に入ったと言う逸話があります。
達磨が「無功徳」と言ったのは、武帝の功名心から行ったことからであります。このように、仏陀の入滅後、仏教の信仰が浅くなっていたのでしょうか ? この様な背景により、仏教の各宗派の足並みが揃わず、「禅宗の開宗」が遅れたのでしょうか ?
達磨は、毒殺されようとしたという話もあります。達磨が起こした「禅宗」と対立する宗派が、達磨を毒殺しようとしたのかも知れません。功徳を求めて善行をするような不純な信仰など、仏教への理解が浅く、その普及が低迷したのではないかと個人的には思っております。

以上が、故老の薄っぺらな思考で御座います。とんでもない馬鹿な話にお付き合いいただきありがとうございました。                         

追伸

小弟の描いた「紙こより画」です。ご覧いただければ幸甚の極で御座います。

面壁九年(めんぺきくねん)

禅宗の開祖・達磨大師が、嵩山の少林寺で壁に向かって9年間座禅を組み、ついに悟りを開いたという故事ですが、小弟が、ティッシュペーパーの角をよって、その先に墨をつけて描いたものです。「紙こより画」といいます。最近、日本画の一つのジャンルとして、美術年鑑にも掲載されるようになりました。「新しい画法」です。
「紙こより画」の魅力には、色々ありますが、小弟が一番気に入っているところは、小弟の意図しない線がでることてせす。「意外性」が面白いですね。一度挑戦して下さい。興味のある方は下記「お問い合わせ」により、

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