妙心寺展の鑑賞

はじめに

         御挨拶  https://misokuso.com/profile/

Screenshot

今日(2026.02.07)から、大阪市立美術館で「妙心寺 禅の継承」が開催される。大阪の大東市市民会館で、私の属する「紙こより画」会の集まりがあるので、その帰りに市立美術館に寄ることにした。久しぶりに見る「通天閣」も「あべのハルカス」も変わりなく聳えていたが、美術館の入り口が改装されておりました。昔は、古風な正面玄関前の石階段を登り館内に入ったのですが、石階段の横(北側)に館内1階のフロアーとフラットに繋がった出入り口が新設されていました。そして、エスカレータで2階のフロアーに上がるようになっていました。

あべのハルカス

寒い冬の青空に、聳えておりました。通天閣も健在でした。

通天閣

通天閣は私が幼稚園ぐらいの時に出来た塔なのです。家族で行くようになっていたのですが、その日に熱を出した私と母親は「お留守番」をして、兄貴と親父が、通天閣に行きました。通天閣に纏わる悲しい思い出です。

妙心寺

妙心寺の建立は、1337年(建武4年)、花園法皇が離宮(花園御所)を禅寺に改めて開山したのが始まりです。初代住職は開山慧玄(無相大師)。室町幕府による弾圧(妙心寺は幕府の五山十殺という[庇護・統制下]に入らず、「林家」という独自の修行をする寺院であったため弾圧される事もあったようです。)また、応仁の乱による焼失なども受けましたが、江戸時代にかけて再興・拡大して日本最大の禅宗妙心寺総本山になりました。「妙心寺」が室町幕府の五山十殺の庇護・統制下を受けていなかったことは非常に重要な部分だと小弟は思っています。詳しく知りたい方は下記URLをタップして下さい。                           https://manareki.com/gozan-zissetu

見たかった展示物

小弟は、妙心寺には最近ですが2回行ってます。行く切っ掛けは、既に遷化されておりますが「松原泰道老師」の法話に心惹かれて妙心寺を訪ねたのがはじまりです。  
 小弟の「松原泰道老師」の投稿のURLをタップすればご覧い 
 ただけます。          
   https://misokuso.com/2841action/

小弟が、見たかった展示物は、妙心寺二代目住職「微妙大師(授翁宗弼禅師)」が残された、唯一の「墨跡『少水魚有楽』」です。比較的入口に近いところに展示されておりましたので、早く見ることが出来ました。

小水魚有楽(少水の魚に楽有り)

人生を賭けて世のため人のために禅を説き続けた微妙大師が、唯一文字として遺された言葉です。

少水の魚とは、やがて失われていく水の中で喘ぎ苦しむ魚のことであり、これは多種多様の問題を抱える現代社会の中で、限りある命を生きる我々の姿であります。果たして少水の魚が抱く「楽」とは一体どのようなものでしょうか?

大師は、人生において決して減ることのない、一生かけても使い切ることの出来ない誠の「楽」を説かれました。この「楽」の正体を知り、我がものとして自由自在に扱うこが大師の教えであり、禅の真髄であります。(大本山妙心寺塔頭天授院住職妙心僧堂師家 道雲窟 島田大拙老師・妙感寺クラウドファンディング寄稿文より抜粋)

小弟が、以前に投稿した「少水魚有楽」は、ここをタップして下さい。
https://misokuso.com/2718action/
https://misokuso.com/_2770action/

微妙大師(授翁宗弼 『じゅおうそうひつ』)
上の写真の「少水魚有楽」を描かれた方です。
南北朝時代の公卿・万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が1334年頃に出家した臨済宗妙心寺派の僧。関山慧玄に学び。妙心寺の基盤を築いた「興祖」として崇められています。「少水の魚に楽しみ有り」への教えを遺し、現在、墓所は、滋賀県湖南市の妙感寺にある座像です。

銅鐘IHS紋入

展示物を順次見ていくと「銅鐘HIS紋入」と表示された展示物が目に入り、西洋風の「釣鐘 ?」が何故「禅寺・妙心寺」の展示物に ? ? ? ? ?と思い鑑賞してきました。

太陽の様な絵柄の中に「IHS」とほられ、真ん中の「H」の真ん中に「ー」(横線)があり、十字架が書かれています。そして、下の方に楔が三本描かれています。これは、フランシスコ・ザビエルに代表される、キリスト(イエス)を表す文字として使われるシンボルです。

この銅鐘に「1577」と書かれております。これは、南蛮寺への寄贈年? 西暦だと思います。信長の「天下布武」は、美濃の稲葉城を抑え、「岐阜城」と改名した1567年頃から使い始めた言葉です。合理的な先進的な国際感覚を持ち、イエズス会の宣教師達を受け入れ、彼らの持つ知識や機能を日本の国造りに役立てようとしました。しかし、信長は、1582年「本能寺の変」により亡くなり、天下は秀吉、家康と移行し鎖国政策に移っていきす。1577年は、信長没の5年前でありますが、バテレンも闊歩し、南蛮寺も容易に建てられたことでしょう。

安土桃山時代の1577(天正5)年に京都の南蛮寺(聖母被昇天教会)のために造られた、イエズス会の紋章が入った貴重な重要文化財のようです。現在は京都の妙心寺塔頭・春光院に所蔵されています。

この銅鐘は、イエズス会の宣教師「オルガンティノが京都に建立した南蛮寺の鐘として使われていた様です。しかし、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で南蛮寺が破却され、様々な経緯を経て禅寺である妙心寺春光院に保管されることになつたようてす。

形状から西洋風の鐘で、銘文として「1577」という西暦が刻まれています。太平洋戦争中の金属改修令の際にも、当時の住職の機転により土中に埋めて供出逃れして、現在まで残された物のようです。

この銅鐘は、日本のキリシタン史や南蛮文化を伝える非常に貴重な史料となっています。

豊臣棄丸像等の展示

次に心惹かれたのが、「豊臣棄丸坐像」です。妙心寺と豊臣家のご縁を知らなかったので、「なぜ ? 棄丸像が展示されているのか ? 」不思議でしたが、ご縁があるようです。
興味のある方は、下記URLをタップして下さい。
https://www.bing.com/copilotsearch?q=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%B6%E3%81%A8%E5%A6%99%E5%BF%83%E5%AF%BA&pq=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%B6%E3%81%A8%E5%A6%99%E5%BF%83%E5%AF%BA&FORM=ANWSB6
簡単に説明します。

豊富棄丸座像(とよとみ・すてまる)
棄丸は、秀吉(53歳)と淀殿(21歳・お市と浅井長政の長女・茶々)の間に生まれた長男。1589年に誕生し、待望の跡継ぎとして期待されましたが、幼名は「捨て子は育つ」という縁起を担いで「棄」の名がつけられ、棄丸。後に鶴松と改名。そして、1591(天正19)年9月、2歳で死亡。病名は判らないが、何らかの急な感染症か病気にかかったと推測されています。
秀吉は、甥の秀次を後継者に据えましたが、後に秀頼(父:秀吉・母:淀殿)が生まれたことにより悲劇に繋がります。・・・。

おわりに

禅宗の寺院の数、僧侶の数などを見ると大きな「臨済宗妙心寺派大本山妙心寺」です。この度の「特別展 妙心寺 禅の継承」の展示を拝見してその歴史と内容の深さには驚かされました。妙心寺へは去年暮れ頃に2回行きましたが、禅宗に興味があり、行ったのですが、今回は、禅寺妙心寺の美術品等に興味が湧き行ってきました。驚いたのは、戦国時代の織田信長、イエズス会、秀吉などに関わる出品もあり、波乱の時代を生きていた人物を垣間見た思いがします。知識として知るだけで無く、生きていた秀吉、信長、バテレンの宣教師などを感じてきました。ネットチケットを既に2回分購入しておりますので、また行く予定をしております。読み頂きありがとうございました。

追伸

小弟、「紙こより画」を書いております。紙こより画のグループの集まりがあり、その日がちょうど「妙心寺展」の開始日でしたので、大阪市立美術館に行ってきました。そして、「紙こより画」の集まりで、一枚描いて来ました。ご覧下さい。字も絵も「紙こより」で書いております。

「紙こより画」は、ティッシュペーパーの角を撚って、その先に墨などを着け、これを筆にして描く画法です。面白い画風が出ます。二度と同じ絵は描けません。「唯一無二」「天下御免」の作品と「一期一会」の出会いを果たして参りました。

興味のある方は、是非ご連絡を下さい。ネット検索で「紙こより画」でヒットしますよ。

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