大和・郡山城の始まり
序
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大和郡山城は、豊臣秀吉の弟・秀長が城主として大和・紀伊・和泉を治めた巨大城郭。現在は国史跡や続日本100名城に指定されており、また、約600本のソメイヨシノ等の桜が春になれば咲き誇り、日本桜の名所100選にも選ばれています。このブログのテーマは「何故、郡山城はここに(郡山市城内町2)に構築されたのか?」を書いてみようと思います。

郡山城跡は続日本百名城の一つ
郡山城跡は、平成2(2017)年4月6日に公益財団法人「日本城郭協会」の選定により、大和郡山ライオンズクラブが寄贈したものです。寄贈日が「城」に掛けて「4月6日」です。

郡山城跡の桜の見頃はいつ?

「郡山城跡」の桜は、例年3月下旬から4月上旬に見頃を迎えます。左←の絵は、小弟が「紙こより(ティッシュ・ペーパーの角を『こより』にしたもの)の先に墨などを着けて」描いたものです。
右→の写真は、追手門樓の虎口辺りの満開時期の桜です。

今、3月半ばには、近鉄郡山駅から近鉄沿線に沿って北進し、祠のある踏切を左折西進して渡り、鉄御門(くろがねごもん)を道沿いに右折すれば左手に堀を見ながら進みます。すると、追手門(梅林門)に至りますが、堀の縁に河津桜が花開いておりました。

最初の郡山城主は「筒井順慶」
もともと、筒井氏は、在地(筒井)の平城(ひらしろ)に居を構え、興福寺衆徒の棟梁としての地位を固め、在地小勢力を合わせた「筒井党」として発展の基礎を固めました。固めたのは、順慶の父『順昭』でした。しかし、順慶1歳(数え2歳)の時、父『順昭』は病死し、父順昭の死を隠す為「影武者」を置き、順慶が成人するまでの1500年半ば頃まで、その死を隠しておりました。
※影武者→「木阿弥」→「元の木阿弥」の由来 初めは、良い状態にあったものが、再び以前の悪い状態に戻る事をいい、また、それまで積み重ねて来た努力や苦労が無駄になることを言います。戦国時代、筒井順昭が病死した時に、順慶が幼少でしたので、順昭の声に似ていた盲目の木阿弥を影武者に立てていました。
「大和」をめぐる「松永久秀VS.筒井順慶」の構図
筒井順慶と松永久秀は、戦国時代の大和国で18年間にわたり覇権を争った宿敵であります。順慶は、久秀の侵攻により大和の国を追われましたが、辰市の合戦の勝利や織田信長の支援などにより、勢力を挽回し1577年に信貴山城で久秀を滅ぼしました。
順慶は、1580年(天正8)、織田信長から大和一国の支配を認められ、郡山城を除く城を速やかに廃棄するように命じられ、同年11月に信長の朱印により郡山城に入った。普請は、その後も続き、1582年(天正10)に信長が本能寺で死んだが、1583年(天正11)に「天主」が完成しましたが、翌年1584年(天正12)に順慶は36歳で病死しました。信長没後(1582年=天正10年)、秀吉により大和国は安堵され、天正12年の順慶死後は筒井定次が後を継ぎました。しかし翌年、関白となった秀吉が全国規模で国替えを行った際に、定次は伊賀へ移りました。
郡山城の築城①
筒井城は、地盤が緩く強い基礎を造れないことから平城でありました。攻撃に対して脆弱であったようです。これを解消すべく筒井城が現在の郡山城跡に移築されたのです。詳しく知りたい方はここをタップして下さい。→https://www.bing.com/search?q=%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%8B%E3%82%89%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E7%84%A1%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%A7%BB%E7%AF%89%E7%90%86%E7%94%B1&form=ANNTH1&refig=69b796dde2f44f87b63ef29cd25d859a&pc=U531
筒井城は、奈良県大和郡山市筒井町に位置する戦国時代の平城でした。現代の近鉄橿原線「筒井駅」の北東(徒歩約5〜10分)にあり、周囲は宅地や田畑ですが、堀跡や土塁の遺構が残っています。現在では、蓮田や石碑が存在します。


郡山城跡地の前に在った『筒井城』の碑
近鉄橿原線筒井駅から徒歩で約5〜10分で、遺構は点在する堀跡や土塁が見られる程度ですが、「筒井順慶城趾」と刻した石碑があり、案内看板な付設されております。
蓮田
かつての堀の名残である「蓮田(はすだ)」が点在している。土地は、フラットで粘土質であり、強い基礎が出来ないことから、平地の平城であったのです。戦国時代の城郭に相応しくない。信長もよう思って、順慶に移築を命じたと思います。

大和郡山城築②
筒井城は軍事的、防衛的にも脆弱であった。
筒井順慶の居城「筒井城」は、地盤が脆弱で平城であり、松永久秀との戦いで幾度も落城し、防御面が脆弱性があったこと。この様な脆弱な城は、信長の趣向にはそぐわないのでしょうか、
織田信長の天下布武の思考
戦国大名の織田信長が揚げた天下布武」は、一般的には、「武力によって天下を統治する」という意味です。つまり、「天下」に「武」を「布(し)く」、つまり武家政権を確立し、世の中を治めることを目指し、最強の天下人(権力者)となり、地域で起こる紛争を武力をもって制圧し、平穏を確保するという考えです。話がそれますが某国の為政者で世界を統治する様な力を保持して紛争を解決しようとし、自らを「平和主義者」と称するのです。この様な為政者に心当たりはありませんか ?
信長の「天下布武」
織田信長が1567年頃、美濃攻略後に岐阜城(前稲葉山城)で、「天下布武」を布告し、武力による全国統一、或いは武力の力による旧秩序の回復と再興(機内・京都の平定)を目指したのです。これは、武力による新しい政治秩序の樹立を内外へ布告したのです。
弱体化した室町幕府を再興し、天下に新しい秩序をもたらすという明確なビジョンを揚げたのです。「天下布武」は、戦国の世を終わらせ、信長独自の意思を伝えたのです。
信長の「天下布武」(美濃国平定=1567年)の布告から筒井順慶の郡山城への移動
信長は、美濃平定の頃から「天下布武」を目指して活動を展開を始めますが、その過程の中に「一国一城令」とよく似た築城に関する命令がありますが、正確な名前を失念したので「一国一城」と表現します。申し訳ありません。
美濃国平定(1567年)から信長の命令により筒井城から郡山城に入ったのが、13年後の1580年でありますが、信長の中には順慶を平城の基礎の脆弱な「筒井城」では敵対勢力に勝つことを望めないと思い、今の「郡山城」の位置に築城しと思われる。
おわりに
右の新聞は、見出しのとおり「郡山城の下に前方後円墳?」とありますが、現場に行き、堀を見下ろすと確かにその形跡が窺えるした。
信長勢が松永久秀を倒し、今までの脆弱な筒井城を廃城して、筒井順慶に対し、1580年、「今ある郡山城」の位置に、新たに築城を命じ、入城させております。信長が1582年に本能寺で没し、続けて順慶が、1584年病死。そして、羽柴秀吉が主導権を握り、1585年に秀吉の弟、羽柴秀長がが、新しい城主になるが、当初は順慶の築城であるが、順慶の死後、秀長が築城に関わっている。

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