郡山城主(秀長)の菩提寺は何故二つある?

はじめに

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2026年1月4日からNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」が放送されています。主人公は豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」ですが、百姓から下剋上を経て天下人となった「兄秀吉」をサポートして天下統一するまでを描いた作品です。放送作品を見る機会がなくてあまり見ていないのですが、興味があるので、郡山城の城跡などを見て回っております。その一つに「秀長の菩提寺『春岳院』」を見て参りました。同院の門を潜って驚いたのですが、手の中にスッポリと入る「小石ぐらいの達磨」が石塔の礎石辺りに所狭しと置いてありました。「春岳院」は「達磨大師ゆかり」のお寺ではないと 思うのですが、何か御縁があるのでしょうか ?

達磨御籤

春岳院には、←の写真の「達磨さん」が、境内に沢山置かれていました。
春岳院を出る時に、お寺を世話されている女性の方に、「どうしてこんなに沢山の達磨さんが 居られるのですか?」と尋ねると、こんな答えが返ってきました。当院の住職が「NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟』」の主人公「豊臣秀長」の菩提寺が当院(「春岳院」)であることや、テレビに映る事や観光客も増えることが予想されるので改修を思いたち、工事の無事を願って達磨さんを置いている」と言っておられました。

しかし、色々調べていくと、秀吉が天下を統一した(小田原城攻め)の翌年、1591年に「秀長」は病死し墓所(大納言塚)に埋葬され、菩提寺は、秀長が死んだその年に、現代の「大納言塚」がある所に、秀吉が「大光院」(初代菩提寺の名称・奈良・郡山)を建てたようです。その後、秀長の婿養子(秀長の娘と秀長の姉の息子「秀保」を結婚させ、秀長の後継者としました)が、この秀長の婿養子「秀保」も、17歳(1595[文禄5]年)で急死し、郡山・豊臣家が断絶しました。更に秀吉も、その3年後の1598[慶長3]年に、62歳で病死しました。秀長亡き後、後継者秀保、兄秀吉がなくなり、豊臣家の軍事・経済の基盤が脆弱化し、徳川家康の台頭を許すことになり、天下分け目の「関ケ原の合戦」に繋がっていったのです。

秀長と高虎

まずは、藤堂高虎(1556~1630年)について

高虎は、1556[弘治2]年、近江国(現在の滋賀県)犬上郡藤堂村で生まれました。藤堂家は地元の小領主てありましたが、高虎の父の代には、農民と変わらないほど落ちぶれていました。

高虎が最初仕えたのは「浅井長政」

高虎は、背が高く190cmの大男らしいのですが、戦いの中に生きていたことから身体中に傷があり、手足の指も何本かちぎれ、爪のない指も数本あったといいます。最初に仕えたのは、北近江の浅井長政(あざいながまさ)で高虎14歳、足軽として仕え「姉川の合戦」で武功をあげましたが、浅井家は、1573(天正元)年に滅び、高虎は失職しております。
その後高虎は、豊臣秀長・豊臣秀吉・徳川家康など10人以上の主君に仕えています。仕えた主君の数は研究者によって異なりますが著名な主君を上げました。

豊臣秀長と藤堂高虎

高虎は、1576[天正4]年、20歳の時、長浜で秀長と出会っています。秀長が高虎を召し抱えた理由は、高虎の持つ「武勇」だけでなく、ち密な「実務能力」「建築への関心」といった才能を瞬時に見抜いき家臣に取り立てたようです。
○ 出会いの場所は長浜。兄秀吉から北近江三郡(坂田郡・浅井郡・伊香郡)を任されていた秀長は、長浜で独自の家臣団
 を構築しようとしていました。浪人生活をしていた高虎は、秀長の家臣であった大木長右衛門の 紹介などを通して秀長
 に呼ばれて面会することが出来たようです。
○ 召し抱えの理由は、
 ・実務への適用性: 多くの主君が、高虎を「一兵卒としての武力」でしか評価しなかったのに対し、秀長は高虎の「計算
 能力」や「几帳面さ」に注目した。
 ・築城の才: 秀長は自身が手掛ける工事や管理業務を任せることが出来る人材を求めており、高虎の建築技術への素養を
 評価した。  
 ・情報の価値: 秀長は情報の重要性を理解しており、伊賀出身の血筋を持つ高虎の情報収集能力も高く評価した。
○ 破格の待遇:三百石
  高虎は、それまでの主君のもとでは80石程度、或いは無禄の放浪状態だったが、秀長は一気に300石とい う異例の
 厚遇を提示しました。高虎は感激して、秀長に一生の忠誠を誓ったようです。

■「高虎の主君変え」に対する評価

高虎の「7度(或いは10回 ? )の主君変え」という経歴に対する評価は、時代や視点によって異なりますが、現代では「裏切者」ではなく、「乱世を生き抜く実力と高い自己プロデュース能力を持つ名将」と評価が定着しているようであります。

秀長没時の埋葬と菩提寺

秀長の墓所と菩提寺

秀長の墓所は、現在の大納言塚(大和郡山市箕山町14)のあるところです。菩提寺は、春岳院(大和郡山市新中町2)と京都・大徳寺塔頭「大光院」(京都市北区紫野大徳寺町92)にあります。
菩提寺が二つある理由については、・・・・・・。

秀長は1591年1月22日、郡山城内で没し、同じ年に現在ある「大納言塚」の位置に埋葬され、近くに「菩提寺・大光院」も同じ年に立てられました。その4年後の1595(文禄4)年に婿養子「秀保」も亡くなり、郡山・豊臣家は滅亡しました。

更に、1598(慶長3)年、秀吉も病死し、その翌年(1599年=慶長4年)に、藤堂高虎は、郡山の大光院(菩提寺)が、間近に迫る「関ヶ原の合戦」により、荒らされる事を恐れ、京都・大徳寺の塔頭として「郡山の大光院(秀長の菩提寺)」を移設しました。この時、秀長の墓所と位牌の管理は、東光院(今の春岳院)にお願いし、郡山と京都の二か所で秀長の菩提を弔うことになりました。そして、1600年に関ケ原の合戦が起こり、東軍(徳川方)が勝利し、1603年に家康が征夷大将軍となり徳川幕府を開幕し政権は「徳川家康」に移りました。豊臣家は「豊臣秀頼」を藩主として存続はしていたものの、徳川幕府の中の一藩主となり、秀頼・淀殿は、その立場を「よし」とせず「徳川」に反目しておれました。
そして、1614年の「大坂冬の陣」、1615年の「大坂夏の陣」により豊臣家は滅び、秀頼と母「淀君」は大阪城内で自害し、天下人としての豊臣家は断絶しました。
この様に「京都の大徳寺塔頭」に郡山・大光院が移された事により、二つの寺院で秀長の菩提を弔うようになりました。二つに分かれたのは1599年(秀吉没後1年)でありますが、郡山にあった「大光院」の跡が判然としないようであります。

大納言塚の荒廃

豊臣家は、大坂夏の陣(1615年)で滅亡し、秀長の腹心「藤堂高虎」は、秀長の菩提寺(郡山「大光院」)を京都・大徳寺の塔頭に移設しました。その時、地元との話し合いで「春岳院(もと『東光院』)」に墓所と位牌の管理を委ね、菩提寺が二つになったのです。藤堂高虎が存命中は、それなりに両菩提寺は維持管理されたと推察しますが、高虎没年(1630「寛永7」年)後は、定か時の流れとともにどこの誰が管理していたのか判然とせず、豊臣家滅亡、或いは高虎没後、墓所は一時に小さな土丘が残るだけのものとなり荒廃したようであります。

しかし、1777(安永6)年、春岳院の僧侶(栄隆・訓祥)と、秀長を「街の基礎(箱本制度)を作ってくれた恩人」と慕う郡山の町衆が協力して基金を集め、現在みられる立派な五輪塔と土塀を再建したようです。

現代の大納言塚

秀長は1591年1月22日に城内で没し、その年に、この地(大和郡山市箕山町14)に埋葬されましたが、墓地の荒廃により、江戸時代中期の1777(安永6)年、春岳院の僧「栄隆」と「訓祥」が郡山町中(こおりやままちなか=秀長が整備した城下町の自治組織や、その区域を指す歴史的な呼び名)と協力して外回りの土塀を作り、五輪塔(高さ2m)を建て、地輪の表面に戒名が彫り込まれています。
秀長の戒名は
「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」
(だいこういんでんぜんあそうしゅんがくしょうえいだいこじ)です。五輪塔の「地輪」に彫られているようです。

地輪に戒名を彫る

五輪塔は、下から方形(地)・円形(水)・三角形(火)・半月形(風)・宝珠形(台形)
の石を積み、仏教における宇宙の要素(五大)や、人体の五体(足・手・胸・顔・頭)を表しています。
大納言塚の特徴は、「地輪」に秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」と刻まれている。

秀長の菩提寺が二つになったのはいつ頃 ?

秀長の菩提寺が実質的に二つ、奈良の春岳院と京都の大光院になったのは、秀長が亡くなった1591(天正19)年の直後、或いは、慶長年間(1596~1615年)と考える人もおられると思います。秀吉の病状、豊臣家の衰退、そして家康の台頭などに加えて高虎の動きも考察すれば、答えが出るように思います。即ち、秀長の後継者(婿養子・秀保)の病死1595年、秀吉の病状の悪化から、死期をいつ頃と高虎が見ていたかによると思います。秀吉が生存中に「豊臣の菩提寺」を奈良・郡山から京都・大徳寺に移すことを「秀吉」に話し難かったのでしょうか ? 秀吉生存中には「秀長の菩提寺の移設」をやっておりません。秀長の菩提寺「郡山・大光院」を奈良・郡山から京都・大徳寺塔頭に移したのは秀吉没後(1598[慶長3]年)後の翌年「1599年」と思います。

【参考】秀吉の最晩年の症状と様子

秀吉の死ぬ2週間前の1598[慶長3]年8月5日に秀吉は、遺言を残しています。(豊臣秀吉遺言覚書→早稲田大学所蔵)。寿命を悟り、五大老・五奉行の合議体制を整えて、幼かった秀頼(6歳)を支えるように遺言を残して、1598(慶長3)年8月18日に秀吉は亡くなりました。

「高虎」の秀長菩提寺の移設

高虎は、1599(慶長4)年頃、豊臣秀長の菩提寺である大光院を「大和郡山から京都・大徳寺山内」へ移設しました。これは、秀長・秀保の家臣であった高虎が、豊臣家の権力低下に伴う大光院の荒廃を心配して、現在の京都大徳寺の塔頭として「大光院」を移設したのです。これは、藤堂高虎の「秀長」に対する敬慕の念と思います。
最初に奈良・郡山の大納言塚の近くに立てられた「大光院」の姿はありませんが、「春嶽院」僧侶と郡山の町人集等の思いが籠った大納言塚(五輪塔)が手入れされ現存しているのは、「秀長様」の人となりを表しているものと思います。
また、藤堂高虎の秀長に対する敬慕の念も凄いものを感じます。

秀長の墓標「大納言塚」と秀長の菩提寺「春岳院」

春岳院

春岳院は、もとは高野山真言宗の寺院「東光寺」で鎌倉時代中期に建造と言われています。
現在は、天下人「豊臣秀吉の実弟「秀長」の菩提を弔う寺院」となっております。1591(天正19)年に秀長が城内で病死し、今の大納言塚の近くに秀長の菩提寺「大光院」が建てられたが、郡山・豊臣家が秀長の婿養子「秀保」(1595[文禄4])が病死し、更に「秀吉」(1598[慶長3]年)も病死し、豊臣家の勢力低下により、徳川家康の台頭を予感した「藤堂高虎(秀長の腹心)」が、奈良・郡山の菩提寺が荒らされることを恐れ、1599[慶長4]年、京都・大徳寺塔頭に「大光院」を移設した。その際、大納言塚近くにあった「大光院」から「秀長の位牌」を「東光寺(現・春岳院)」が引継ぎ、「東光寺」を秀長の戒名から二文字「春岳」とり、「春岳院」と改められた。

藤堂高虎は、かっての主君・豊臣秀長(秀吉の弟)の菩提寺である大光院・春岳院に対して、単に有能な武将に育てて貰ったという恩義だけではなく、敬愛に満ちた深い愛情を持っていたのではないかと思います。

・荒廃からの救済と敬愛 : 秀長が亡くなってから8年、誰にも顧みられず荒れ果てた大光院(奈良・大和郡山)を見て、心を痛めた高虎は、秀吉死去の翌年(1599年)に京都・大徳寺の塔頭として政治の中心である京都に移築・再興したのではないでしょうか。この行動は、秀長への深い敬愛から来たものでしょう。
・死後も続く絆 : 高虎は若い頃、秀長の下で合戦や領国経営、築城に大活躍しました。高虎にとって秀長は、「自身の土台を築いてくれた主君」であり、その供養を生涯にわたって大切にしたのでしょう。
・自身の供養塔と並べて建立 : 高虎は、大光院(京都)にある秀長の墓所の隣に、秀長の正妻と自身の供養塔を建立させました。この並びは、高虎が「死後の世界も主君と共に」という強い思いを持っていたことと言われています。

高虎は風見鶏の武将とも呼ばれましたが、秀長に対しては義理堅く、その忠誠心も主従関係を超えた愛情に満ちたものであったものと言われています。

京都・大徳寺塔頭「大光院」

秀長・秀保・秀吉の死により豊臣家は衰退し、秀吉も1598(慶長3)年に伏見城で62歳(or63歳)で病死し、秀長のかつての家臣「藤堂高虎」は、秀長の恩義に報いるため、関ケ原の合戦kの発生を予測し、奈良・郡山の秀長の菩提碑の荒廃も予想されたので、1599(慶長4)年に郡山から京都・大徳寺内の塔頭に菩提寺の移転・創建をした。その後も藤堂家が手厚く保護を続け居たようです。
藤堂高虎の忠誠心の詳細を取りたい方は下記URLをクリックして下さい。
https://henreki-nihonshi.com/takatora-hidenaga-hideyasunoon/

秀長の菩提寺は二つある。

先の「春岳院」の欄でお話ししたように、秀長の菩提は、大和郡山市に在る「春岳院」と京都市北区に在る「大徳寺・塔頭『大光院』」で祀られています。菩提寺が二か所あることについてお話いたします。

郡山城の前身は、筒井城であります。地盤が緩く、攻防に難がある平城でます。宿敵松永久秀との攻防では、順慶は、何度も敗退しております。1577年、信貴山城の戦いで織田軍の協力を得て、順慶は「松永久秀」を倒し、信長から「一国破城令」により、大和の国においては、郡山城以外の城の全てを破却するよう命じられ、筒井順慶が1580年に郡山城に入り、築城することを命じられました。しかし、1584年に順慶が、36歳で病死し、養子である「定次」が後継者となりましたが、後に伊賀に移されてしまいました。

順慶が死亡して、後継者「定次」が伊賀に転籍した1585年に、秀吉の采配で秀吉の弟「秀長」を、郡山城主にして西ノ京丘陵の南端の高台に奈良盆地(平城旧跡・国分寺東大寺等皇族ゆかりの神社・仏閣が多く所在する地)を見下ろす位置に郡山城を築城し、大阪城の東側を守らせ、西側に姫路城を建てて大阪城を守らせたのですあります。秀長を郡山城に入れたは、信長没後2年の1585年ですが、信長亡き後、1582年に清須会議で信長の後継者を決めることや領地再配分の会議が行われ、秀吉が実権を握り、また、1583年の賤ケ岳の合戦においても「柴田勝家」を下したことにより、信長亡き後の主導権を「秀吉」が握ったのです。

しかし、信長の補佐役である秀長が、郡山城主を務めた期間は、1585(天正13)年8月から1591(天正19)年1月に秀長が亡くなるまでの6年間という短い期間であったが、その功績は大きいと言われている。

秀長は、1591(天正19)年1月22日に52歳で病気で亡くなっておりますが、秀吉の天下統一を支えた「真の功労者」として知られる有能なナンバー2でありました。軍事面での安定した指揮、諸大名との調整、大和郡山城を拠点とする巧みな領国経営、そして秀吉への冷静なブレーキ役として、秀長は、豊臣政権の礎を築くのに不可欠の存在でありました。
詳細については、下記URLをタップして下さい
       https://www.touken-world

最後に

豊臣秀長の菩提寺が大光院(京都)と春学院(奈良)の二つある主な理由は、秀長の没後に豊臣家の滅亡や家臣の判断によって、菩提寺そのものが奈良から京都へ移転し、それぞれに菩提を弔う寺院として存続しております。

秀長の木彫

京都・大徳寺内の塔頭「大光院」の客殿に安置されている「秀長」の木彫

※ 大徳寺塔頭の入り口の映像は上記に掲出済み

京都大徳寺の塔頭「大光院」の墓所に「秀長と高虎」の五輪塔が寄り添って立っている。

写真、左の大きな五輪塔が秀長、右の大きな五輪塔が高虎のようです。

郡山の初代「大光院」が、高虎により京都大徳寺塔頭に移されたのは秀吉没年の翌年、1599(慶長4)年であり、関ケ原の合戦の1年前であります。
高虎が何故菩提寺を移設したのか?西軍対東軍の天下分け目の合戦により、菩提寺を奈良に置くより、皇室のある京都の方が荒らされないと高虎は思ったのかもしれません。そして、高虎は、1630(寛永7)年に生涯を終え、秀長の横に「高虎」が五輪塔を建てることを遺言したのかもしれません。

経緯と理由

・もともとの菩提寺(大光院)の移転
 秀長が、1,591年に郡山で没した際、兄の秀吉によって郡山城内に菩提寺「大光院」が建設されました。しかし、秀吉没後の1599(慶長4)年に、秀長の重臣であった藤堂高虎によって、奈良・郡山にあった大光院(郡山・大納言塚に秀吉が建てた)は京都の大徳寺山内に移されました。

・位牌の継承
 大光院が京都に移転する際、秀長の位牌は大和郡山の「東光寺」という寺院に託されました。これを受けて、東光寺は秀長の戒名(大光院殿亜相春岳紹高大居士)から二文字を取り「春岳院」と改称し、地元の菩提寺としての役割を引き継ぎました。

・二つの菩提寺の現在の役割
 ○秀長の位牌を安置し、城下町・大和郡山の人々に親しまれている菩提寺として身近に置きたいという県民・市民の願  
 いに応えて居る。
 ○近くには秀長の墓所である「大納言塚」もあります。

最後に一言

秀長と高虎は主従関係を超えた「きづな」を感じます。この辺りを少し簿下げてみたいですね。長々とお付き合い有難う御座いました。

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